18歳時点で勉強してなかった人の知識・見識・考えの浅さは致命的。
その後知識を付けてもものの見方が一方的だったり、狭い範囲で考えた結果が最適解だと思いこんだり。
高校入試、大学入試で精一杯勉強することの費用対効果は他に比類なくいい。
ただし、勉強しろと言われてする勉強と、知りたい・この学校に行きたいと自分の意思で勉強するのでは身につくものが全く違うから勉強することを他者に強要することは無意味。
勉強することのメリットが正しく伝われば勉強したくなるし、伝わらなければ伝え方・受け取り方の問題だから勉強することのメリットが伝わる方法を勉強する。
↓ 勉強することのメリットが文字でうまく表現されてていい。考えてること・思ってることを文字で的確に表現できる能力も勉強しないと身につかない。考え・思いをうまく表現できないと、自分のことを他者に誤解されつづけることになる。社会で生きずらくなる。
「学問は自分の世界を広げてくれる」ってのは真実だが、そのパワー、そのすごさ、その感動は全然人に伝わらねえんだよな。
勉強は知識にインデックスを付けて回る行為だ。そして学問とは、そのインデックスを掘り起こして整理し、組み合わせ、関連に気づくことだ。今まで解かれてきた数学の難問はほとんどこういう経過で説かれてる。人生も、仕事も同様だ。隠されたつながり、関連に気づくことがすなわち価値のあるアイディアだ。何も知らなけりゃ組み合わせねぇ。ラマヌジャンみたいな異次元の天才はまずいないからな。
そして、勉強とは「ものの名前を知ること」でもある。現象、状況、歴史、物体、あらゆるものに名前がついている。名前を知るということは、そのものに関する歴史を知るということだ。世の中の99%のものは、すでに先人が発見済みだ。車輪の再発明を防ぎ、無駄に迂回する必要もない。
単に映画を見るのでも、視点が全く異なってくる。世の中の創作物というのは、製作者が全霊をかけて「うまいこと」を言おうとしている。通常、その「うまいこと」は5割も気づいてもらえればいいほうだ(実際に創作してる人ならわかるだろう)。学べば、その6割、7割、もしかすると8割を気づけるかもしれない。その瞬間の感動は、3割の理解に100倍する。そして、もっと学びたいという欲求が生まれる。死の間際まで学びたいと思う。任天堂の岩田社長も死の間際まで勉強していたらしいしな。あこがれるわ。
明日死ぬとしても学びたい。知らないことを知りたい。このエネルギ、この興奮は、いかなるものよりも価値がある。俺はそう思っている。
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