ある日、仕事中にこんな会話になった。
「ロゴマークのデザインって難しいよね」
すると田中晴子がこう答えた。
「笑い男マークとか、やっぱり悔しいけど上手いんですよね」
笑い男マーク(The Laughing Man)とは、攻殻機動隊 Stand Alone Complexに登場するテロリストのマークだ。
「この、内側の線のほうが太いところとか、このまわりの文字は詩になっていて、”僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えた”なんですよね。深い。物語の意味とあいまってこういうマークは深みがあるんですよ」
笑い男マークは21世紀が始まったばかりの頃、日本のネットでもっとも流行したアイコンのひとつだ。
「どうすればこんなすごいマークを作れるんだ?」
僕は聞いてみた。
「どうすればって・・・清水さん、それはどうすればスターウォーズを作れるか、という話と同じですよ」
僕は首をかしげた。
「と言うと?」
晴子は笑いながら言った。
「ジョージ・ルーカスにしか、スターウォーズは作れない」
なるほどごもっとも。
この23才の若き映画監督は、ときどき、予想外に鋭いことを言う。
そこで僕は、この笑い男マークの作者に会いに行くことにした。
それがPaul Nicolson。ロンドン在住のデザインファクトリー、TERRATAGのリードデザイナーだ。
笑い男だけではなく、東のエデンのセレソンマークやノブレスケータイのロゴなどもデザインしているほか、アニメ以外の世界では、ロンドンの伝説的テクノミュージシャンであるAphex Twinのロゴマークで世界的に有名だ。
彼は日本通で、日本のアニメが大好きだ。
特に好きなのはマクロスとガンダム。
「日本のアニメのメカニックデザインの凄さは世界でも群を抜いてる」
彼は言う。
「河森正治、カトキハジメ、大河原邦夫・・・彼らは僕のヒーローだ」
それは僕も一緒だった。
ロンドンにある彼のワークショップで、バルキリーの変形メカニズムの精緻さについて語り合い、僕らは意気投合した。
そうして、彼は今日本に来ていて、僕と一緒にデザインの仕事をすることになった。
彼と出会って、僕のデザインというものに対する考え方は大きく変わった。
彼は言う。
「designは、哲学だ。だからdesignをする前にあらゆる情報が欲しい。テクノロジー、情熱、意味、背景、前提、歴史・・・すべてだ。それをじょうごに入れたように搾り出していく。少しずつそぎ落とし、融合させ、それから考える」
言葉で言えば実に陳腐だ。当たり前のことだ。
しかし、実際には彼はそういう意味やもののかたちに拘った。
彼とディスカッションするのは非常に刺激的だ。
彼はものの歴史や隠された意味などに非常に拘る。
それをなんとかデザインに取り入れようとするのだ。
たとえばこのセレソンマーク(Paulはセレカウと発音する)。
「東のエデン」では、選ばれた12人のセレソンが、ミスター・アウトサイダーの陰謀で100億円の使い道を考える。ただし、現金として引き出したりすることはできず、この100億はすべて国益のために使わなければならない。
100億円使い切らなければ、待ち受けるのは死。
そういうデスゲームを演じる様子を、Paulは「ピエロのようだ」として、道化師の帽子をデザインモチーフにしている。
さらに、番号が描かれているが、XIIの中をよく見ると、+–となっていて、これは漢字で十と一をあらわしている。
シナリオをよく読みこみ、考えに考え抜かないとこういうデザインは出てこない。
従ってインプットは多ければ多いほど良い。
そんなわけだから、僕は彼をいろいろな場所へ連れて行きながら、僕の考える世界と技術、文化と歴史について説明したり、議論を交わしたりを続けている。
これはとても有意義で、刺激的な時間だ。
「designは、単に線を引くことじゃないんだ」
Paulは言う。
「考えて、感じて、それを自分のものにして表現することなんだ。だから実際に線を引くのは最後の最後なのさ。これは経験を重ねれば重ねるほど、線を引くのは最後になるんだ」
僕はまさしくそのとおりだと思った。
僕はプログラマだったが、経験を重ねれば重ねるほど、実際にコードを書く時間よりも、その意味や構造を考える時間のほうを長くとるようになった。
で、結局最後はコードも書かなくなった。
企画書だけは書いていたけど、最近はそれもやめて最初の最初の企画だけ考えるようになった。あとのことは現場にできるだけ書いてもらっている。僕だけでは足りないのだ。そして美術に関しては田中晴子に一任している。
それは単に手を抜いているのではなく、そのほうがより良いものが作り出せることを経験によって学んだからだ。
デザインも一緒なのだろう。
どちらも、考えを整理し、あらたに構築するという側面を色濃く持っている。
これぞ機械には絶対にできない、人間の仕事だ。と思った。
なぜなら、どれだけ機械が進化して、機能や知性が十分備わったとしても、人間として人間の生活を送ることは不可能だ。
しかし、人間が必要とするものを人間の生活を経験することなしに考え出すことは絶対にできない。したがって、機械がどれだけ高機能になろうと、どれだけの知性を持つことになろうと、真の意味でのdesignだけはすることができない。
絵を描くことはできるだろうし、文章も作り出せるかもしれない。
けれども、それはdesignでいえば線を引く、という最終工程であって、本質とは程遠い。
機械は計測することはできなも、感じることはできない。
身を焦がすような恋愛や、フットボールチームの応援で熱狂したり、酔っ払って醜態を晒したり、ポルノビデオを親に隠れてこっそり見たり、といったことは決してしない。
それは人間しかやらないことで、人間しか経験し得ないことだ。
つまりdesignは、人間にしかできないもしかしたら唯一の仕事なのかもしれない。
僕らは町にでて、議論を交わし、町や人を観察し、感じ取る。
彼らは何をしているか?彼らはどんな格好をしているか?彼らはなにを欲しているか?彼らはなにを知っているか?彼らはなにを知らないか?彼らが欲しいと思うものはなにで、実は彼らはまだ欲していないけれども本当に必要なものはなにか?
世の中にまったく存在しない、新しいものを創り出す。
僕は昔、そういうもの、つまりクリエイトされるものは、常に頭の中から出てくるものだと思っていた。
けれども、そうして作った作品は、荒削りで、そしてむしろどんどん陳腐になっていくのだった。
一人の人間の想像力には限界がある。しかもそれはけっこう低い。
なぜなら人間は自分の経験したものや見たことの範囲でしかものを考えられないからだ。
想像力を鍛えるためには、なによりまずたくさんの経験をつまなければならにない。
しかも若いうちに、徹底的に、だ。
そうして僕らは町にでて、見て、感じて、考える。それを繰り返す。
ワインが樽の中で発酵するように、僕らは世界という巨大な樽のなかでしっとりと化学反応を起こしていく。
僕はアーキテクトとして、世の中に必要になるであろうものをdesignする。
彼はデザイナーとして、僕の考えるテクノロジーをもっともうまく表現する方法を考え出す。
堀君がより現実的なモデルとバリエーションを考え出し、布留川君がエンジニアとしてそれを実装する。
溢れんばかりの才能に囲まれて、僕は本当に幸せだと思う。
と同時に、これだけの才能に囲まれてろくな成果が出せなかったら、それは100%自分の責任だよな、という重圧もある。
そう思うと眠れなくて、いまはこんなブログを書いている。
僕らのdesignに、乞うご期待。たぶん完成するのは数年後だけど。
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