僕が住んでいるギークハウス東日本橋の居間には平日の昼間でも大抵何人かの人間がいる。住人やよく遊びに来る人に、無職や、働いている人でも時間が自由に使える人が多いせいなのだが、結局平日昼間に暇な人の溜まり場のようになっていて毎日誰かしらがやって来てはうだうだとどうでもいい話をしたりゲームをしたりして遊んでいる。そんな木曜の午後にこないだ話していたのは「無職やるのにも向いてる人と向いてない人がいるよね」ということだ。具体的には「お金をそんなに使わずに時間を潰すことができるかどうか」というようなことなんだけど。
例えばここ数ヶ月、僕は豊井(無職・20歳)とPS2で「サムライスピリッツ天草降臨」「Capcom VS SNK2」「King of Fighters 2002」などの古い格闘ゲームで対戦ばっかりしていたんだけど、これらは全てゲーム屋で500円とか1000円くらいで買えるものだ。1000円なんてパチスロでも打ったら10分で消えるお金だけど、その1000円で2人の人間が何十時間も飽きもせず遊んでいるわけで、ちょっとコストパフォーマンスが良すぎるのではないかと不安になる。
街に出て飲み会とかするのが好きな人はあんまり無職に向いていない。飲み食いは結構お金がかかる。買い物が好きな人も向いてない。ギャンブルに走ってしまう人も駄目。一方、インターネットやゲームや本が好きな人はそんなにお金がなくても幸せに暮らせる。僕なんかひたすらWikipediaを読んでるだけで何時間も過ぎていることがよくある。Wikipedia、YouTube、ニコニコ動画、ブログ、2chまとめwikiなど、ネットにはお金をかけなくても楽しめる無料のコンテンツが既に大量に存在している。基本的には家が好きだけど、ずっと家に籠っているとやっぱり少し飽きたりするので、ときどき近所のカフェやファミレスにも行く。よく僕・豊井・似非原(無職・27歳)の三人で近所のファミレスなどに行くんだけど、そのときはみんなノートパソコンや筆記用具を持っていって、僕はパソコンでブログを書いたりサイトをいじったり、豊井はペンで絵を描いたり、似非原は絵を書いたりプログラミングをしたり文章を書いたり、各自もくもくと何か作業をして時間を過ごす。コーヒーを一杯頼んでそれで2,3時間だらだらして、店にいるのにも飽きたらまた家に帰るといった具合だ。
思うに、何かちょっと物を作ったりすることを楽しみにできる人は貧乏に強い。創作は消費ほどお金がかからないし、作ったものがお金に変わることもときどきあったりする。紙とペンさえあれば、もしくはパソコンさえあれば何時間でも退屈しない、というタイプの人がよく訓練された年季の入った無職には多いように思う。ギター一本あれば何時間でも独りでぺらぺら弾いて遊んでられるとか。故・中島らも御大は「「教養」とは学歴のことではなく、「一人で時間をつぶせる技術」のことでもある」と言っていた。わりとお金がなくてもなんとかなるし、楽しいこともいくらでもできる。逆に、僕が昔会社に勤めて働いていたときのことを思うと、働いてるときは今よりお金に余裕があったけど、精神がすり減っていて今よりも毎日が楽しくなかったし、仕事でストレスが溜まって衝動的にそんなに必要でもない買い物をしてしまったり、仕事での疲れを和らげるためにお金を払ってマッサージに行ったりしたときに、本当に意味のないことをやっている気がした。そもそも仕事してなかったらその出費する必要なかったんちゃうかと。
あと、時間や体力の余裕があれば安く済むところを、仕事をしてると余裕が無いので余分にお金を出して解決してしまうということも多かった。例えばちょっと離れた安いスーパーで買い物して自炊すれば美味しいものを安く食べられるのに、働いていると自炊するのがだるくて外食ばかりになってしまったりとか。あとまとまった休みが盆とか正月とかゴールデンウィークとかしか決まった時期しか取れないから(しかもせいぜい長くて一週間くらい)、どこかに出かけようとしても割高な値段だったり、どこに行っても混雑していて不快だとか。
それは、会社に自分の時間を売ってお金を得たけれど、その得たお金でまた時間を買い戻しているだけのような気がした。それは本末転倒というか、本当に何をやってるのか意味が分からないなーと思ったし、別にお金があんまりなくても時間さえあれば僕は充分楽しく暮らせるような気がしたので仕事を辞めたのだった。それ以来僕は毎日インターネットやりながらお金はないけれどのんびりと暮らしている。僕にとっては今のぶらぶらした暮らしが天職のようなものだと思っているし、この場所でしかもう生きられないな、と思う。ネットがなくなったら死のう。まあまずなくならないだろうけど。
引用元: 無職の才能 – phaのニート日記.
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