誰かを崇拝しすぎると、ほんとうの自由は、得られないんだよ。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

自由とは、既に平等に与えられているものだと私は考えています。自分を束縛するものを選ぶことが、私は自由だと思います。信じるものを選ぶと言っても良い。

自由人とは、自分で自分が何を信じているのかを自覚して、選んでいる人のことです。
自由とは、根拠も成しに何かを真だと思うことができる能力のことです。

人は、本質的に自由です。自分で信じるものを、本来は自分で選ぶことができます。
当然ながら、信じることを自分で意識して選ばなくとも良いということを無意識に信じることだって、自由ではないかと思います。
だから、「誰かを崇拝し”すぎる”と、ほんとうの自由は、得られない」のです。それは、先入観だから。

誰かを崇拝しすぎると、ほんとうの自由は、得られないんだよ。
By スナフキン
自由って何?

私はできるだけ自由人であろうと思っています。無責任なフリーターの言い訳と同じ言葉ですね。そう言われてしまったら、返す言葉はありません。けれど、まず私は自分を自由であると思っているところが、自由なのです。(トートロジーですね)

そもそも、自由という概念は難しい。

つっこんで考えていくと、「私は自由である」という言及は、前提として「どんな範囲において自由なのか」という認識を含んでいるように思います。

たとえば。高校生がアルバイトをしてお金を稼いで、そのお金を使ってビジネスを立ち上げたとします。彼は、「俺は自分の金でビジネスをしている。その利益をどうしようと自由だ」と言ったとすると、当然ですが、ここで言う自由は利益の権利を指しますね。

あるいは。大多数がA族である社会において、B族が「我々にはA族と同じ自由があるべきだ」と言うとき、その自由はA族が持つ自由のことを指しているのでしょう。

逆に言えば、前提になっている範囲を超えた自由については、全く言及していないのです。

ビジネスを立ち上げた高校生は、高校生である以上、学校の規則によって不自由です。また、未成年としての不自由さもあるでしょう。あるいは、A族とB族の社会は、実はC族によって支配されているかもしれませんし、より構成員にとって自由な別の社会があるかもしれません。

自由は前提になっている範囲を逸脱できないのではないか、というのが私の持論です。そこで、それらの前提を全て根こそぎにして考えてみると、そこに自由の本質があるのではないか、という仮説を立ててみます。あくまで仮説ですが、私個人の心の中では真実です。

二つのケースを検討しましょう。

一つは、良く言われることですが、一人の究極の自由は、他の一人の不自由を意味することがある、という話です。極端な例を挙げるなら、「人を殺す自由はあるのか」です。(人を殺すことの善悪は全く無視して検討すると)人を殺す自由が無いのであれば、それは間違えなく不自由を意味しますが、人を殺す自由は、その殺される人の「生きる自由」を奪うという意味で、不自由を意味します。この構造が存在する限り、万人の自由は無いと言えるでしょう。

もう一つは、物理的な制約です。どんなに頑張っても、物理法則による制限を逃れることはできません。まあ、当然のことですが。それに伴って、外部からの影響を全く受けないことも、お金を使うこと無しに他人の財を得ることもできません。私たちの自由は、自明なことですが、さまざまな規則や法則の制約を受ける意味で、存在しません。もちろん、自分の感情に影響を受けない自分も、存在し得ないでしょう。

自由は存在しないのか?

自由はないのでしょうか。本質的には無いとすることもできるように思います。ですが、まあ、あるものとして考えて、自由とは何かを決めてしまうことも、きっとできるでしょう。

なのでこれは、個人的な見解です。

自由とは、既に平等に与えられているものだと私は考えています。自分を束縛するものを選ぶことが、私は自由だと思います。信じるものを選ぶと言っても良い。

科学の世界で心霊現象を証明できるにも関わらず、霊魂の存在は証明できないから、霊魂など無い。幽霊はいない。例えばこのような言説は、「科学が正しい、科学が全てだ」と信じているのではないでしょうか。科学だって、斉一性という偶然で説明できてしまう曖昧な前提の上になりたっているのに。

あなたは何かを信じている筈です。何も信じていないという人は、言葉遊びのようですけれど、自分は何も信じていないと信じていますよね。あるいは、「水は液体である」だったり、「私たちはコミュニケーションを取っている」だったり、「nia.note っていうブログの作者は男である」だったり。あるいは、「作者という言葉の意味」だったり。

さまざまなものを信じている筈です。

私が言う自由人とは、自分で自分が何を信じているのかを自覚して、選んでいる人のことです。自由とは、根拠も成しに何かを真だと思うことができる能力のことです。

これが、私が一番納得できた「自由とは何か」という事柄に対する答えです。(当然ながら、これを自由だとする場合、前述の事例は自由とは全くことなりますけれど)

この自由について言えば、自由は他人の不自由を意味しませんし、行動や前提に支配されるものでもありません。

では不自由とは?

前述の前提に立って不自由が何かを考えると、それは先入観や常識ということになるでしょう。

あなたは(そして私も)多くのことを無自覚に受け入れています。それらが覆されないことさえ知らずに、信じています。あるいは、信じていることに名前なんて無いのに、信じているかもしれません。例えば、自由とは良いものだと思っていますか? という問いかけには、「自由なんて無い」という真実だって考えられるのではないでしょうか。

先入観が不自由の正体だと、私は思っています。

人は、本質的に自由です。自分で信じるものを、本来は自分で選ぶことができます。当然ながら、信じることを自分で意識して選ばなくとも良いということを無意識に信じることだって、自由ではないかと思います。だから、「誰かを崇拝し”すぎる”と、ほんとうの自由は、得られない」のです。それは、先入観だから。

これも、そんな先入観かもしれません。

自由が幸せだとは限らない
By スナフキン

引用元: スナフキンから教わる「自由」 ? nia.note.

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク

コメントを残す